想いを紡げ。
波乱に満ちた、奈良の大仏が出来上がるまでのお話。
前回の続き!!!!
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「この国を、仏教の力によって救ってもらうためには、国中の銅や木材を持ち寄って、大きな大きな大仏を作らないといけない。
天下のすべての富を持っているのは私だから、その気になれば、大仏なんて簡単に作ることができる。
しかし、それじゃあ意味がない。この国の民ひとりひとりが、自分の意思で、ほんの少しでもいいから材料を持ってきて、大変だけど、大仏造りをボランティアで手伝ってほしい。
そうしてこそ、仏様は我々を助けてくれるんだ!!!!!」
西暦743年 大仏造立の詔。結構強気に出たよね。聖武天皇はみんなに大仏づくりを手伝ってもらえるように呼びかけた。でも、人々は集まらなった。
なぜか。
それは、庶民にしてみれば、「もう既に、こんなに重たい税のおかげでただでさえ生活が厳しいのに、大仏を作るためにタダ働きしろだって!?」
当時は鉄道やタクシーなんてなかったから、もちろん都までは歩き。行きだけで何日かかるかもわからないし、その間の食費や宿泊費も自腹。とてもじゃないが、辿り着く前に死んでしまう。
そんなところに、あいつは現れた。古代のスーパースター、庶民の味方。彼はあまり教科書では語られない人知れずのヒーロー。人々の暮らしを少しでも良くするために社会事業を展開したアクティビスト。
その名は、行基である。
当時、仏教を一般庶民に広めることは禁止されていた。というのも、お坊さんは国を救ってくれるのがお仕事だったので、免税対象だったんだ。もし仏教が広まって出家する人々が増えてしまっては、税収入が減ってしまう。
だから、ルールを破る行基は政府から厳しい弾圧を受けていた。しかし彼は、仏教は国だけでなく、一般の人々ひとりひとりが救われるためにある、という信念にもとづいて、いろいろな活動を行った。
例えば、川に橋を架けたり、道路を整備し、都へ労役に来る人々のために、宿泊施設をたくさん建設した。また、池などから水を乾燥した土地に引くといった灌漑施設もたくさん作った。
こうして多くの人々の心を掴み、多くの民衆に慕われる存在だった。
政府は、厄介者の行基が大嫌いだった。もちろん聖武天皇もその一人。
弾圧もした。
でも、国の安定させるために、どうしても大仏が作りたかった。
協力してくれる人が集まらなかった。
この国を救いたかった。
自分には何もできなかった。
仏教の力を借りたかった。
行基は嫌いだった。
でも、どうしても大仏、ツクリタカッタ、。、
やむなく、聖武天皇は行基の人脈を使って、大仏建立のための人材を集めてもらおうと協力を要請する。弾圧までしていたが、彼に「大僧正(だいそうじょう)」という僧侶として高い地位まで与えた。
かくして、行基の呼びかけやその広い人脈によって、多くの人々が協力しに集まり、大仏づくりは進んでいった。そして、752年、開眼の記念式典が開催される。
行基は、大仏の完成を見届ける前にこの世を去ってしまう。彼の功績を称える声は多いが、その反面、平城京や国分寺の造営、大仏造立といった大規模事業の連続によって国家財政や民衆をさらに疲弊させた、という評価もある。
人々を救うために始めた大仏づくりが人々を疲弊させていくのは皮肉なストーリーだね。
でも、前回に続いてこの物語を紡いだのは、行基という人物について考えるため。
彼は、人々にとって一番良いこと、物事の本質を見極めて、自分の信念に従って多くの活動を行った。
法まで侵した。
弾圧までされながらも、人々の信頼を勝ち取っていった。なんとなく周りの流れに身を任せて、「それはうまくいかないよ。」と思われても、挑戦を忘れない。
思ったことを形にする、行動に変える。その行動がさらに周りの人間に働きかけ、その人たちがまた行動を始める。
行動の連鎖。
人々を救いたいと願う一人の活動家が紡いだその糸は、今も多くの人々を魅了する、奈良の大仏を編みあげた。
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参考:
誰でもわかる聖武天皇!簡単にわかりやすく徹底解説【奈良の大仏と仏教に捧げたその生涯とは】 | まなれきドットコム (閲覧日 2019/11/30)