まだ見ぬ『平家物語』の世界へ
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
一度はどこかで聞いたことがあるでしょうか?
多くの中学生も習う『平家物語』です。
でも、そこで習う内容はというと、「形あるものはいつかは必ず朽ちる、という仏教的な無常感が漂っていて、なんだか寂しい内容ですよね」で終わってしまう。。
いや、そんなことはない!!!!
いや、そんなこともあるけど!!
『平家物語』を「はぁ、はかない世の中だねぇ~」で終わらせてはもったいない!!!
13世紀に成立したこの『平家物語』全12巻は、日本の中世世界で繰り返された内乱とその騒乱を生き抜いた武士たちの戦いぶりを描き出した作品で、
特に、武家政権誕生にいたる複雑な内乱の過程を、平氏の勃興と滅亡に絞って描き出した傑作長編なんだ!!!!!
『平家物語』の作者はいまだに不明で、
一番有力な説なのが、
信濃前司 行長(ゆきなが)という人物が作ったっていう「徒然草説」がある。
(「徒然草(つれづれぐさ)」っていう別の随筆に、そういう記述があるらしい。)
『平家物語』は当時の政治や戦争を知るための貴重な史料ってだけじゃなくて、
その時代を生きた人々の精神のありようまで教えてくれるんだ!!
そして、有名なのが、『平家物語』がこの当時に爆発的な知名度を誇るのに、一役買ったのが、
琵琶の伴奏にのせて、
印象的にエピソードを唄い、
語り歩く、
琵琶法師たちのおかげだった、ということ。
実は、琵琶法師っていう職業は、盲目(目が見えない)の人たちのために与えられた、専門の職業だったんだよ!!
現在でも、ハンディキャップを持って生まれてきた人々や後天的にそれを得た人が、社会で活躍できるための動きがたくさん行われているんだけど、
琵琶法師っていうのも実はその種のもので、盲人の職能集団だったんだ!!
今回は、『平家物語』の中で、特に印象的な「壇ノ浦合戦」の場面を紹介♬
朝廷方と源氏軍の逆襲を受けることとなった平氏軍は、西国へと逃れていく。
唯一の頼みの綱は、清盛が無理矢理天皇に即位させた、孫の安徳天皇。
即位当時は、わずか1歳だった。
平氏軍は、彼の「天皇」という権利をなんとか手放すまいと、当時6歳になった彼と一緒に西へ西へと走る。
朝廷では新たに後鳥羽天皇が就き、日本には天皇が同時に2人いる状態になった。
そして、朝廷の力を背後に源頼朝(よりとも)率いる源氏軍の勢いは止まらず、
とうとう平氏軍は本州最西部、壇ノ浦の海まで追い込まれてしまう。
平知盛(たいらのとももり)は味方たちを励ます。
「いくさはけふ(今日)ぞかぎり、物ども、すこしもしりぞく心あるべからず、.......
名将勇士といへども、運命つきぬれば力及ばず、
されども名こそ惜しけれ(武士として誇りを持ちたいのであれば)、
東国の物共によはげ(弱気)見ゆな、いつのために命をばおしむべき。」
窮地に立たされた軍勢を奮い起こす。
清盛の妻、時子(ときこ)は、孫である幼い安徳天皇を抱いて、慰める。
「浪(波)の下にも都のさぶらうぞ。(都はきっとありますよ)」
このあと2人は、一緒に千尋の海に沈んでいった。
安徳天皇は日本史上、最年少没年を記録している。わずか6歳でした。
平宗盛(むねもり)とその子清宗(きよむね)は、重い鎧を脱ぎ捨て、海に入る。
「なまじゐに屈強な水練にておはしければ、しづみもやり給はず」
「相手が沈まばわれも沈まん、相手が助からばわれもも助からん
(相手が沈んだら、我も沈もう、相手が助かれば、我も助かる。) 」
そう互いに目を合わせてから、必死に泳いだ。
その報いも待たずに、2人は敵兵に引き上げられてしまう。
最後に、平知盛が放つ。
「見るべき程の事は見つ、いまは自害せん」と。
闘争、死線、諦念、愛情、覚悟、決断。
人間の真実を垣間見せる壇ノ浦の情景は、
私たちに「生きるとは」、「死ぬとは」、
そして、「愛するとは」という崇高で壮絶な営みの断片を、後世に残してくれた。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
----------------------------------------------------------------------------------------
参考:
---------------------------------------------------------------------------------------
↓ ↓ 日本史 ↓ ↓