Shima Shima English

エイメイ学院 / 明成個別 英語科講師のブログ

I like tennis, soccer, and baseball.

問題:あなたが好きなスポーツについて、3文以上の英語で書きなさい。

 

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 この問題に対して、2通りの中学生の解答を見てみよう!

 

 

Aさんの解答

I like tennis very much.

And, I like soccer, too.

I watch baseball games on TV.

 

 

Bさんの解答

I like tenis very mach.

My favarit tenis player is Kei Nishikori.

Becouse he play tenis very well.

 

 

 

 もし採点官があなただったら10点満点中、果たしてそれぞれの子に何点あげるだろうか。

 

 

 

 Aさんの解答は、文法のミスが全くない。

 

 

 Bさんの解答は、"tennis"や"much"などのスペルミスや、最後の行で3単現の"s"が抜けていたりなど、数えてみると、ミスが7個もある。

 

 

 

 

 しかし、内容を見てみるとどうだろうか。

 

 

 Aさんの解答は好きなスポーツについて、箇条書きで3つ書いてくれた。それぞれの文につながりは全くない。

 

 

 Bさんの解答はスペルミスはあるものの、ちゃんと主張があって、それに対して情報を付け加え、さらに理由まで述べようとしてくれた。

 

 

 

 もし、採点基準、採点方法が昔通りだったら、Aさんは10点満点で、Bさんは減点方式で3点くらいだろう。

 

 

 でも、今は違う。

 

 

 

 そんな、文法・知識中心型の英語からは脱却しようとしている。

 

 

 現在の評価基準は、

○文章に「つながり・まとまり」があるか。

 

○コミュニケーション上、支障がないか。

 

というような、英語を「知識としての英語」ではなく、「言語としての英語」が求められている。

 

 

 上のような評価基準で採点すると、Aさんの解答はつながりのあまりない箇条書きスタイルで、コミュニケーションとはとてもじゃないけど、言いづらい。

 

 

 それに対してBさんの解答はスペルミスのせいで、やや支障があるかもしれないけれど、自分の考えを論理的に説明しようとしている。

 

 

 そうなってくると、Aさんは4点、Bさんは8点くらいにはなるらしい。

 

 

 

 これは極端な例かもしれないけど、この採点方法はいい傾向だと思う。

 

 というか、"そう"であってほしい。

 

 

 

 文科省の調査によると、現在でも、冒頭の問題を中学生にやらせてみると、大半はAさんのような解答を作るらしい。

 

 

 一体、英語を教えて、「どんなことを子どもたちにできるようになってもらいたいか」を考えれば、おれらがどうすればいいか、おのずと答えは出てくるだろうな。

英語革命

 今日、杉並区立のある中学校の英語の授業を見学してきた。

 

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 ひと言でいうと、、、凄かった。

 

 

 何がそんなに凄かったかというと、

 

 ①授業がハイテク

 パワーポイントでの授業はもちろん、それを映し出したスクリーンを触って操作してやがった!おれらしかびっくりしてなかったから、都内の学校では当たり前なのだろう。しかも、板書をする必要がないから、なにより授業のテンポが早い。歌や本文内容の映像も流れて、インプットの豊富さもやばい。

 

 ②日本語が聞こえない

 授業はALL Englishで日本語を使う瞬間はなかった。先生の指示出しはもちろん、なにより生徒が英語を使ってる。英語を読む、聞く、話す、書くが網羅的になされていた。先生の指示出しは、流暢でとても速いが、生徒たちはなんなく意味を汲み取り、すぐにアクティビティへ動き出す。きっと日頃の授業で習慣づいているのかもしれないけれど、凄い。さらに、生徒たちは英語を積極的に使ってコミュニケーションをとろうとする。

 

 

 

 これだよな、と思った。

 

 

 

 授業後に、その回を担当していた先生の話を聞く機会があった。

 

 「2年生の教科書本文も復習になるので、毎授業読ませてます。」

 

 「英語の歌も学年で統一してこの月はこの曲をやる、という風に決めています。」

 

 「現在分詞、過去分詞なんて文法用語は使いません。

 

 「英文法の用語は、自分でワークをやるときに、『ああ、これのことだったのか。』ってわかるくらいで十分です。」

 

 

 

  これだよな、と思った。

 

 

 

 英語を勉強する意味があるとすれば、それは「英語を使えるようになるため」でありたい。つまり、英語を読めて、聞けて、書けて、話せるためにやらないと教養で終わってしまう。

 

 

 

 しかし、学校や塾では英語の授業なのに英語が全く聞こえない授業が多い。なにより、生徒が一言も英語を口にしていないだろう。

 

 

 

 でも、「英語の授業なのに、文法をひたすら解説」する授業って、

 

 「体育の授業なのに、跳び箱を座学で解説」

 

 「音楽の授業なのに、楽譜について解説」

 

 「家庭科の授業なのに、包丁の使い方を教科書で解説」

 

 こういう授業と同じじゃない??

 英語は「主要3科目」じゃなくて、「実技科目」であるべきじゃないのか?

 

 

 

 

 文法中心の授業が展開されて、定期テストは知識問題中心。これでは、塾では生徒の成績を上げるために、文法のワークをただひたすら解くことから抜け出せない。

 

 生徒や保護者のニーズは、「英語が使えること」ではなく「英語の成績が上がること」。そうなると、知識問題中心の定期テストを倒すためには、そういう授業が大半を占めることになる。

 

 

 

 最近、おれは塾講師としてこの大問題(?)について、ちょうど葛藤していたところだった。なんてったって、おれの授業を100%理解して帰ったとしても、文法問題は解けるが、英語を話せるようにならないじゃん!!だからだ。

 

 

 

 だからおれは新しい挑戦として、最近は1、2年生の授業の半分くらいを英語でやるようにしてる。もっと生徒が英語を話せる機会を作るようにしてる。

 

 

 

 入試問題や定期テストが変われば、塾も変われる。

 

 だけど、そんな時間待ってられない。今教えている生徒たちに申し訳ないし、なんなら将来使えない英語を教えている犯罪人なんじゃないかってくらい重く考えてる。

 

 

 

 おれは今、ホワイトボードの左上に「関係代名詞」なんて言葉、あまりに怖くて書けないでいる。

突然の "do"

 子供たちは本当に思いもよらないところに気が付く。しかも確かに不思議だよな、っていうところに。

 

 「"Do you play soccer?" の "Do" は一体どこからやってきたの??」

 

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 確かに。そんなところに気が付くのか。いやでも確かにそうなるわ。しかも、この質問をぶつけられた大人は困ってしまうだろう。なぜなら、それを「当たり前」として、「当然のもの」として覚えてきたし、そう覚えさせられたからだ。

 

 

 

 これを中学生に答えるとなると分かってもらえるか分からないけど、面白いからおれは聞かれたら話すようにしてる。

 

 

 

 実は "I play soccer." の文の中には、"I" と "play"の間に、"do"が隠れてるんだ!!

そんで、その "do" は、「事実」を表す助動詞なんだ!!つまり、"can" とか "will" とか "must" とか "should" とか "may" とかと同じ仲間!

 

 まあ、だから "正しく" 書くとするなら、"I do play soccer." なんだよね。高校英語をしっかり勉強した人なら、「強調の "do"」とかっていって出てくるけど、いつもと違う言い方をすれば、そりゃ強調になるよね。

 

 そんで、助動詞の否定文の作り方は!?「助動詞の後ろに "not" をおく」。じゃあ、疑問文の作り方は!?「助動詞と主語をいれかえる」

 

 だから、"I (do) play soccer" は、否定文にすると、"I don't play soccer." 、疑問文にすると、"Do you play soccer?" になるんだね。これが、一般動詞の否定文・疑問文で突然 "do" が登場する訳。おれはこれ知ったとき、わりと感動したけど。

 

 

 

 しかし、この疑問を呈した中学1年生は、まだ助動詞を勉強していないので、この説明をしても理解できない。だから、「ごめんな、これはね、めちゃくちゃ面白い質問で、英語を勉強していくと後でわかるんだ。だからその時にまた教えてあげるね!楽しみにしとけ!」と答えた。

 

 中学1年生にして最大の難所にぶち当たるようになっている英語教育。

「なんでbe動詞の時はひっくり返すだけなのに、一般動詞だとどこの馬の骨かもわからない "do" がいきなり出てくんの!?」

 

 実はbe動詞にも秘密があって、こいつらも助動詞の顔を持ってるんだよ!っていう話はまたいつか。笑

家庭の天使

 多くの人々に愛されている童話「シンデレラ」。悲劇のヒロインとして登場し、魔法の力で王子様と結ばれる。童話としても、ディズニーのリメイクとしても有名なこの物語。今回は、このシンデレラの服装について。

 

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         ↑シンデレラ(https://www.tokyodisneyresort.jp/happy/bbb/princess/

 

 

 実は、この華やかなドレスの内側には秘密が隠されている。それは、腹部を強烈に締め付ける「コルセット(corset)」と、スカートを膨らませるための輪っか状の針金クリノリン(crinoline)」

 

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↑コルセット 

(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%83%E3%83%88)

 

 19世紀ヨーロッパではウエストが細ければ細いほど美しいと思われていて、多くの女性が腹部を硬い鉄の板で締め付けた。想像してみてほしい。硬いコルセットのおかげで内臓は上部に突き上げられ、多くの女性は身体異常をきたした。

 

 コルセットだけでも恐ろしいけど、注目したいのはクリノリンの方。この服装、見ればわかるけど、明らかに動きづらい。馬車からも降りれないし、これじゃあトイレもまともにできないんじゃ!?当然昔の舗装されていない道なんて泥まみれになってしまって歩けない。結果どうなったかというと、女性は家にいるしかない。

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クリノリン(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%8E%E3%83%AA%E3%83%B3)

 

 この服装がもとで家にいることを余儀なくされたのか、女性は家にいるのが当然だからこの服装が生まれたのか、どちらが先か順番は分からない。でも、これが生まれたことで、女性が「家庭の天使」になるのは加速しただろうね。

 

 女性が家事を担う(家にいることを余儀なくされる)ことを加速させる、動きづらさの文化はヨーロッパだけにとどまらない。

 

 例えば、お隣中国では「纏足(てんそく)」と呼ばれる文化があった。幼少のころから女の子の足を布でぐるぐる巻きにして成長しないようにする。女性は足が小さい方が美しいんだって!いやいやこんなんじゃまともに歩けないし、家を出るなってことか!?

 

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               ↑纏足(てんそく)(https://karadasuteki.com/20190424/)

 

 実は、日本にも女性の動きづらさの文化がある。それは、十二単(じゅうにひとえ)」である。これは平安時代から現代までに受け継がれる女性の伝統的服装。

 

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 ↑十二単(じゅうにひとえ)(https://wedding-tips.jp/n09_junihitoe-wedding/)

 

 重さは約20kg。ビジュアルからして動きづらさの極み。こんな格好で道を歩いては、路上のごみをすべて回収してしまうんじゃないか!?トイレなんて絶対大変。女性らしさを表す華やかな一面がある一方で、日本の女性は家庭内に閉じ込められたのである。

 

 「クリノリン」、「纏足」、そして「十二単」。もちろんこれは貴族社会の話であって、庶民はもはや男女の区別なんてなかった。だとしても、他にもたくさんの例が地球のあらゆるところで見られると思う。でも本当に不思議なのは、「いつどの時代、どこの地域でも男性は外で仕事、女性は家庭内で家事を行う」という、謎の共通点である。

 

 現代日本でも、女性の動きづらさの文化として、ハイヒール、パンプスといったものがある。オシャレで履いている、という人ももちろんいるが、無理矢理"そういうもの"として履かされている女性も多い。特に就活時のこれらの履き物はやめようという動きがやっと出てきたところ。

 

 ここまで女性の活躍を謳う日本でもまだまだ女性の社会進出は完全とは言えないし、多くの主婦の方々が不平をこぼしながら家事という無償の労働を強いられている。実は日本が一番、女性に対する扱い方がワールドスタンダードから遅れていたりする、というのが実情なんだって。

古代ペルシアから始まる「選択」の教え

 キリストがこの世に生まれる1000年以上も前に、古代ペルシアにはゾロアスターという人物が、聖者として人々から崇められていた。

 

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 彼は自らを哲学者と言い、この宇宙は光と闇、善と悪、真実と虚偽、生と死の相対する2つの領域に分かれていて、人間はそれを自らの意思で「選択」できる、と説いた。

 

 つまり、ひとりの人間が善を選択すれば、光や生命の力を高め、悪を選択すれば、闇や死の力が強くなる、ということだ。だからゾロアスター「運命」とか「宿命」なんてものはない、人間は自らの力で未来を切り開けるんだ、と主張した。

 

 彼の教えはゾロアスター教としてアケメネス朝ペルシアから始まり、ユーラシアの東西に広がった。彼の思想はユダヤ教に影響を与え、中国にも広まった。キリスト教イスラームユダヤ教から生まれたとするならば、彼の思考は世界中で生きていると言っていい。ちなみに、ゾロアスター教の善神アフラ・マズダ(Ahura Mazda)は日本の自動車メーカー「マツダ(Mazda)」の由来にもなっている。日本にまでも到達してるってすごくない?

 

 他にも天国と地獄という二項対立が仏教やキリスト教に影響を与えただとか、ゾロアスター教の祭司を指す "magus"(複数形はmagi) が魔術師を意味する "magician" になっただとかいろいろあるけど、今回は「選択」することについて話したい。

 

 「人生は選択の連続である。」というのが、一体何年前から議論されているのか。ゾロアスターによると、人間は内に善と悪の両方ともを秘めていて、誰でも思うままに選択することができる。しかもその選択ひとつひとつが宇宙の結末に影響を及ぼすんだって。天国に行けるのは、この世で良いことをしたご褒美なんかじゃなくて、善を選択し続ければ当然辿り着くものなんだって。

 

 つまり、行きつく先は自分の選択によるものだし、逆に言うと選択することで自分の未来を選べるっていうこと。時代や周りの意見に流されて辿り着くんじゃなくて、流されることを自分で「選択」したってこと。「面倒だから」、「私にはちょっと」というのは怠けや不安なんかじゃなくて、何もしない自分になることを「選択」したってこと。「辛いけど勉強頑張る」、「やったことないけど挑戦してみる」というのは、理想の自分になることを「選択」したってこと。

 

 ゾロアスター教では善神だけでなく常にそれと対になる悪神も消えることなく信仰の対象とされた。つまり、誰でも良い部分と悪い部分があることは分かっていて、分かれ道に立った時にどちらを選択するかで、誰でも良い方にも悪い方にも行けるってこと。

 

 どこに辿り着くかは分からない。途中の道が険しすぎることもあるかも。でも確かに言えることは、自分が、なりたい自分になるために、今、あなたはその道を進んでいる、ということ。決して神様が、運命が、そうなるように仕向けたわけじゃないんだ。

能面と私たち

 室町時代観阿弥世阿弥が大成した能には、「能面」というお面が使われる。「能面のような顔」というように、無表情の代名詞のように言われるが、実は「能面」には無限の表情が見てとれる。

 

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 能面を正面から見た場合と、横から見た場合とでは、読み取れる表情が異なるし、うつむくのと、見上げるのとでも、見える感情が変わる。つまり、能の役者さんによって表情の変わらないとされる「能面」に、多彩な表情が宿るのである。

 

 ぼくたち人間も、「能面」のように、いろいろな「顔」を持っている。いろいろなキャラクターを持っている。たとえば、家での「顔」、学校での「顔」、職場での「顔」、親友と会うときの「顔」、恋人といるときの「顔」というように、ぼくたちは生活のあらゆる場面に応じて、キャラクターを演じる。でも、相手はその「顔」が私のすべてだと思い込む。

 

 人を外見で判断してはいけない、というのはここからくるんだと思うけど、言いたいのはそこじゃなくて、「私ってなんなんだろう?」と悩んでいる人に、それはあなたが決めることじゃないってことを伝えたい。

 

 ぼくたちは日常のシチュエーションに合わせて、様々なキャラクターを演じる。まるで多重人格のように。身体は1つのはずなのに、キャラクターをたくさんもっている。自分の存在価値を定めたい人は、自分がまるで1つの一貫したストーリーを持った存在として位置づけたいんだろうけど、それは難しい。だって、ぼくたちにはいろんな「顔」があって、その一面があなたのすべてではないから。

 

 自分がなぜ生まれたかなんて誰にも分らないし、むしろ自分が今生きている意味なんて無いって思ったほうが楽かもしれない。そこにどう意味を彩るのも自由だし、ましてや他人からどう思われているかなんて、他人にとって私がどういう存在なのかなんて分からない。

 

 だから、ぼくたちが目指すところは、もしかしたらそのもっている様々な「顔」のひとつひとつを深めて、磨いて、広げることなのかもしれない。ぼくたちの「顔」というのは相手にとって想像を超える影響力をもっている。

 

 だからこそ、相手からどう思われているかを気にすることよりも、自分とは何かを定義することよりも、今この瞬間を思いのままに生き、あらゆる「自分」を極めることが大切なんだ。能役者さんがその表情ひとつひとつに、力強い命を吹き込むように。

 

 それが「私」という存在を深く、豊かなものにする。600年以上も前の芸術が今もなお多くの人々に愛され続けるように。