能面と私たち
室町時代に観阿弥・世阿弥が大成した能には、「能面」というお面が使われる。「能面のような顔」というように、無表情の代名詞のように言われるが、実は「能面」には無限の表情が見てとれる。
能面を正面から見た場合と、横から見た場合とでは、読み取れる表情が異なるし、うつむくのと、見上げるのとでも、見える感情が変わる。つまり、能の役者さんによって表情の変わらないとされる「能面」に、多彩な表情が宿るのである。
ぼくたち人間も、「能面」のように、いろいろな「顔」を持っている。いろいろなキャラクターを持っている。たとえば、家での「顔」、学校での「顔」、職場での「顔」、親友と会うときの「顔」、恋人といるときの「顔」というように、ぼくたちは生活のあらゆる場面に応じて、キャラクターを演じる。でも、相手はその「顔」が私のすべてだと思い込む。
人を外見で判断してはいけない、というのはここからくるんだと思うけど、言いたいのはそこじゃなくて、「私ってなんなんだろう?」と悩んでいる人に、それはあなたが決めることじゃないってことを伝えたい。
ぼくたちは日常のシチュエーションに合わせて、様々なキャラクターを演じる。まるで多重人格のように。身体は1つのはずなのに、キャラクターをたくさんもっている。自分の存在価値を定めたい人は、自分がまるで1つの一貫したストーリーを持った存在として位置づけたいんだろうけど、それは難しい。だって、ぼくたちにはいろんな「顔」があって、その一面があなたのすべてではないから。
自分がなぜ生まれたかなんて誰にも分らないし、むしろ自分が今生きている意味なんて無いって思ったほうが楽かもしれない。そこにどう意味を彩るのも自由だし、ましてや他人からどう思われているかなんて、他人にとって私がどういう存在なのかなんて分からない。
だから、ぼくたちが目指すところは、もしかしたらそのもっている様々な「顔」のひとつひとつを深めて、磨いて、広げることなのかもしれない。ぼくたちの「顔」というのは相手にとって想像を超える影響力をもっている。
だからこそ、相手からどう思われているかを気にすることよりも、自分とは何かを定義することよりも、今この瞬間を思いのままに生き、あらゆる「自分」を極めることが大切なんだ。能役者さんがその表情ひとつひとつに、力強い命を吹き込むように。
それが「私」という存在を深く、豊かなものにする。600年以上も前の芸術が今もなお多くの人々に愛され続けるように。